新潮文庫 nex

YOMIMONO 読み物 小説、エッセイ、著者インタビュー、等々。新潮文庫nexが贈る特別コンテンツ。

 私は色々な小説から影響を受けていますが、他に、強く影響を受けていると思っているもののひとつにスピッツがあります。
 ロックンロールバンドのスピッツ、ご存じですか?
 私と同じくらいの世代なら知らない人はいないくらいメジャーなバンドで、有名な曲は『ロビンソン』、『空も飛べるはず』、『チェリー』など。
 曲も歌声も素晴らしいのですが、私はとにかくこのバンドの歌詞が好きで、学生のころは読みふけっていました。ボードレールより好きです。フランス語を覚えればまた結果は変わるかもしれませんが、少なくとも今のところは。
 さてこのスピッツの曲に『8823』というタイトルのものがあります。
 おそらく私が高校一年生くらいの時期の曲なのですが、『8823』の一文にとにかく痺れました。
 抜き出すと、この一行です。

 君を不幸にできるのは 宇宙でただ一人だけ

 凄まじいですね。
 これと同じような文章を、何も考えず無神経に書いたら「君を幸せにできるのは世界で僕ひとりだけ」くらいになるのではないでしょうか。まったくレベルが違います。
 ほかの部分は置いておいて、核心だけに絞ると、この文意で「不幸」という単語を選べるのが途方もないです。

 私の基本的な考え方に、「否定の否定は肯定とだいたい同じ意味になる」というものがあります。もちろんまったく同じではないのですが、遠目にはそう違わないくらい同じになると思っています。
 たとえば私は「愛は勝つ」とは恥ずかしくて書けませんが、「愛が弱いものだなんて誰にも証明できない」とは書けます。こういう風に、素直に肯定できないことを、否定の否定で表現するのが私にとっては自然なのです。
 そこで「君を不幸にできるのは宇宙でただ一人だけ」です。
 ポジティブな言葉が入るべき部分をネガティブな言葉に置き換えているのに、意味が反転していない。むしろ強調されている。この鋭さ。
 私が遠回りして、2回否定しないとできないことを、一発で決めているわけです。
 私は十五年間ずっと、この一文に憧れつづけています。

 さて、「階段島シリーズ」のテーマのひとつは、「否定への否定」です。
 私は子供のころ、実に様々なものに否定的でした。
 夢は叶わないと思っていたし、たいていの正しいことは偽善的に見えて嫌いだったし、多くの愛情は身勝手な都合から生まれるのだろうと思っていました。実のところ、童話や昔話のハッピーエンドさえ信じられない子供だったのです。
 そんな過去の自分への反論が、このシリーズです。
 夢は叶わないという言葉に反論して、見え透いた正義感を嫌う感情に反論して、愛情の弱さに反論して。
 あらゆる否定的な価値観に反論できたなら、すべてを肯定するのとそう変わらないくらい綺麗な小説になるかもしれません。
 遠回りだとしても、私は私にとって自然な方法で、肯定的な物語を書きたいと思っています。

 でも、その一方で、私は『8823』の一文を求めてもいます。
 ポジティブをネガティブに置き換えても変わらない、強く鋭利でダイレクトなものがどこかにあるのではないかと探しています。
 いずれにせよこの小説の素材は否定であり、ネガティブなものです。
 それがいつかは肯定的な、ポジティブなものになると嬉しいです。

2015年5月 河野裕
河野裕Kono Yutaka
1984(昭和59)年、徳島県生れ。兵庫県在住。グループSNE所属。2009(平成21)年、『サクラダリセット CAT, GHOST and REVOLUTION SUNDAY』でデビュー。著書に「サクラダリセット」(全7巻)「つれづれ、北野坂探偵舎」シリーズなどがある。